97年10月、都内のある小売店店の業態開発・新規開業のお手伝いをしました。
この時の体験を、「マンガ 飛び立て! つばめ銀行下町支店」の第11話の中で紹介しています。
また、次のお話しは、その時の体験談を基に、小説仕立てでフィクションストーリーをまとめたものです。
なお、「駄菓子らんど 華屋」は次の場所で営業しています。ぜひ一度お訪ねください。
東京都東大和市南街1-39-13
南街交番前電話042-562-0923
駄菓子屋ブームと云われているけど、その多くは、ショッピングセンターやアミューズメントタウンのテナント出店やコンビニなどの駄菓子コーナー、さらに大手資本によるチェーン展開の動きが中心だ。
しかし、このような大資本中心の駄菓子屋ブームとは別に、どこにでもある見慣れた商店街の環境の中で、駄菓子ショップの可能性を考え、自分なりの駄菓子店のビジョンや夢を持って脈々と商売を続けてきた店主が全国に何人かいる。そんな人達を見習って、最近、駄菓子店の新規創業を果たした人がいる。彼、山田さん(仮称)がそうだ。山田さんのこの新規開業に至るまで、どのような幕直進前を行ってきたか、ひとつの奮戦記としてここでご紹介したい。
山田さんは、学校を出てから2,3年は家業の海産物や野菜などを中心の食料品店を手伝ってきた。しかし、10数年前に付近に小学校、団地などがあることから、菓子パンなども入れた総合食品小売店に模様替えして、ある大手のチェーン店にも加盟することとなった。
今までの10数年間の自分の商売を振り返ってみると、大資本に翻弄され続けの毎日だった。近くに大手スーパーができて商店街の肉屋、魚屋、八百屋は姿を消してしまった。 山田さんは、スーパーに負けてはなるもんか、と大店法改正でスーパーが営業時間を延長する前から夜11時まで頑張ってきた。
この10数年間、一日も休みが取れなかった。いや、取ろうとしなかった。
山田さんから見れば、最近の小売店主の元気の無さ、商売の自信のなさを見るにつけ幾分あきらめ顔である。そんな中で、俺の店は絶対生き残ってやる、近所のお客様が俺の店に買い物にきてくれる、そんな姿を見ることで疲れた体が逆に休まるような気がした。だから年中無休で頑張ってきた。
今から2年前のある日、山田さんは近くの図書館で駄菓子屋さんのことを書いた本を見つけた。その本の中の昔懐かしい駄菓子屋さんの店先の絵に奇妙な魅力を感じた。子供達がお客様として活き活きして、お小遣い10円、20円を大事に自分の判断で自由に使う、店先を自分の世界としてメンコやビー玉で遊ぶ、口の回りが水飴でベトベトになる。50代以上の大人なら誰でも知っていて、今の子供達は見たこともない自由な空間である。
この古くて新しい駄菓子屋空間をもう一度オレの街に呼び戻したい。今までむち打って妻と一緒に年中無休で頑張ってきたが、もうオレも50代。これからの人生を考えると、駄菓子屋がオレの最大の理解者である妻とこれからも息長く地道にやれる商売だ、と直感で感じ取った。
その後、山田さんは、じっくり駄菓子屋新規創業のチャンスを見計らってきた。結局、長年世話になったチェーン本部へは廃業の意志を伝えて契約更改を見送った。今から1年前の時だった。小さいながらも、自分のお客様の顔を想像しながら自分で商品を仕入れて商品を丁寧に陳列する。そこに店主の商売の創造性が発揮される。最近、チェーン本部のやり方が変わって、仕入も陳列もすべて本部に任せてしまうため自分の存在が薄れていく、そんな気持ちも幾らかあった。
一体どうやって駄菓子屋を開業しようか? 店を止めてしばらくしてから、山田さんから私に相談があった。以前、商工会の勉強会で会ったことがあり、山田さんの商店経営や小売り店から見た街づくりの見識の高さには私も敬服していたので、私の方から特段、新規開業の手立てを教えることは無かった。ただ、山田さんが2年間暖めてきた構想をどう実現させるか、その事業コンセプトを暖めて具体化させるために何を行うべきか、その手順をお互い話し合った。
まず、最近の駄菓子や駄玩具店の動きが活発な関西の事情を足で確かめることにした。最初に行ったところは、大阪下町の住宅地でわずか3坪のお店でおばちゃん3人で頑張っている駄菓子屋「○○屋」さんだ。
この店の名物は、たこ焼き。10個で何と××円(あまりの安さに信じられない。衝撃的なプライス。)
このおばちゃんに話を聞く。「あんなあ、駄菓子屋の商売は、相手が子供いうてバカにしたらあかんよ。最近の子供は口が肥えとるから、まずいものはだああれもこうていかん。だから、時々、問屋さんを訪ねて安うておいしいものないかなあ、このお菓子あの子に気に入ってくれよるかなあ、と買いにくる子供の顔を思い浮かべて仕入るんよ。」
またこんなことも云ってくれた。
「最初、このたこ焼きを始めるとき、値段は絶対××円にせないかん! というカンみたいなこだわりがあったんよ。その値段で、商売ギリギリのところで、子供らの学校帰りのお腹の足しになって欲しいとねごうて材料の配分を考えるのが一苦労。たかがたこ焼きと思ってバカにしたら、安うてもおいしゅうなかったらだあれも見向きもせん。今の味になるまで、何回も作っては食べ、作っては食べ。どや、うちんとこのたこ焼き、おいしやろ!」
そんな話をしていた横から、ご婦人が「おばちゃん、たこ焼き5箱」と注文の声。近所のご婦人方が集まって茶話会みみたいお昼がわりにたこ焼きを頂く感覚だ。
その後、市内中心部で駄玩具店のお店を見学した。ティーンやヤングOL層を意識した商品構成で狭い店内、おもちゃ箱をひっくり返したように、陳列棚から、壁から天井近くまでびっしりと駄玩具で占められている。買い物客は、店内をひっくり返すようにして自分の好みに合った商品を丹念に探し出して喜ぶ姿が目に浮かぶ。これだけの商品を手まめに仕入れてオリジナリティを出していくエネルギーにはまったく脱帽。
商店街は、全国どこも厳しいけど、大阪の商店街やお店は何となく粘っこさ、親近感があって、元気がいい。空堀商店街、黒門市場、通天閣界隈、天神橋筋、ワッハ上方界隈。このフュージョンな抜けてふわっと飛んだ感覚。これからの駄菓子屋空間には絶対欠かせない要素だ。
郊外のショッピングセンター内のテナントの駄菓子店を見る。徹底されたチェーンオペレーションで完成された品揃いはすばらしいが、駄菓子屋らしい猥雑性、ポップな感覚が何となく薄く物足りなく感じる。
すると、若いお母さんが5歳くらいの子供を連れてお買い物。この駄菓子屋さんの前で、子供が買ってもらったばかりのチョコレート棒を開けてすぐ食べ始める。お母さんは「お店の前で何で食べるの!お行儀が悪い!」と金切り声で叱る。子供はびっくりして、べそをかいて泣く。手が震えて、持っていたチョコレート棒の半分を床に落としてしまう。「床にチョコが着いちゃったじゃない! だめじゃないの~。」とまた叱る。子供は「ウェ~ン」とさらに大泣きである。
この光景をたまたま見ることができて、私たちは運が良かった。私たちは、駄菓子屋は路面店でロケーションがしっかりしていないといけないと感じた。絶対、子供を裏切るような駄菓子屋は作らないと心の中で誓い合った。今回の大阪行きは私たちの事業コンセプトづくりに大きな励みになった。
それからの山田さんの行動はすばらしかった。駄菓子問屋街を探したり、駄菓子屋さん巡りを続けて、商品知識を勉強して自店の売場レイアウト作りと平行して商品構成のプランを何回も練り上げた。
単価が10円、20円の世界で時間当りの客数を確保して売上をキープするのは厳しい。事業収支をはじくと決して儲かる商売とは云えない。また10坪もない店内にアイテム数が千から二千以上に及ぶため、魅力ある商品でボリューム感を維持していくことは相当のエネルギーがいる。さらに、個人商店で仕入れることができて、最新の商品情報を持っている問屋さんも決して多くない。したがって、問屋任せでなく、経営者自身が自店の小商圏の中の生活者をもっと観察して仕入商品を勉強しなければ、魅力あるお店空間を作ることができない。
私たちは、シルバーー層と子供層をターゲットに「懐かしさ」と「ポップな感覚」を基本にしたお店作りのコンセプトを確認して店舗改装の計画作りを行った。あらかじめ計算した事業プランから、投資金額の上限を決めて取りかかった。できるだけ目に付くところ金をかけて、見えない部分はローコストで押さえるようにした。自分で造作できる部分は自分で後から行うことにした。新規開店を知らせるチラシにはこだわりを出した。
この春、山田さんのお店は無事、新規開店にこぎつけることができた。開店日の来店客数や売上はあまり関心がない。
これからが商い(飽きない)の毎日である。細く息長く続けていくことが大切だ。山田さんには、その心構えがしっかりできている。決して「でも・しか」の安易な気持ちで駄菓子屋さん開業を思い立ってはいない。自分なりの小売店主としてのこだわりと意志を持って、勉強熱心だ。それに何と云っても子供とお祭りが大好き人間である。
このような好奇心旺盛、真摯で創業意欲のある人でなければ駄菓子屋は絶対うまく行かない。山田さんのような人が一人でも現れてくれば、中小の駄菓子・駄玩具問屋さんも活性化につながる。
駄菓子屋さんという古くて新しい空間創造は、「小を積みて大を為す」の二宮尊徳の言葉のように、大きな志と小さなお店作りが一体とならなければ絶対成功しない商売である。
この業界が見事生まれ変われるか、あるいは大手資本中心の一時的なブームで終わるか、ある意味では商店街や中小小売店全体の再生のヒントとなるかもしれない、そんなことを啓示した大きな課題である。